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最近テレビで「ふなっしー」という「ゆるキャラ」が、
取り上げられて一躍有名に。

さぞや地元である千葉4区では有名なのでは?ということで、
他地域で暮らす友人、知人に家族や親族らから、
電話やメールなどで問い合わせがあった「地元」の人たちも、
多かったハズ。

しかしながら、
「私も報道で知りました・・・」と、
中国の報道官のような返答しかできなかった人もまた多かったハズ。

だって知らないものは知らないモン!

でもって、この「ふなっしー」が最近、
メジャーなCMに登場したことで、
これまたネットを中心に「プチブレイク」しているらしい。
16tyaCM22.jpg
このCM(アサヒ十六茶)なんですけどね。

着ぐるみにしては異常な跳躍力の連続ジャンプで
バックグランドショットながら、
懸命にアッピールしている「ふなっしー」を、
マニアックな人たちは見逃すハズがなく、
ツィッターなどで「なんだアイツは?」
ってな調子で「拡散」し始めると、
今では「地元」より他の地域の人たちの方が、
「ふなっしー」に関して詳しかったりすると・・・
ちょっと「おかしな現象」が起きている今日この頃。


ちなみに船橋市の公式マスコットは、
汗一平(あせいっぺい)くん(青い方)と、
風さやかちゃん(ピンクの方)。

しかし残念ながら船橋市民のほとんどは、
彼らの存在そのものを知らない。

ついでに書くと、
千葉県の公式マスコットキャラクターは、
今では、すっかり有名な(ハズの)チーバくん。

この公式マスコットキャラクターとて、
今でこそ「知ってるソレ!」のレベルまできたものの、
ここまで全国に知らしめるために、
どんだけ県として「税金を投入」したことかと、
皮肉を垂れる千葉県民も結構いたりする、
キックバック臭プンプンの、
いわくつきのキャラ。

私、潮風太子的には、そういうドロドロとした
胡散臭さが結構気に入っておりますが・・・。

でも、子供の目は正直でしてね。

チバテレビ(UHF系)で放送されている、

チュバチュバワンダーランドというミニ番組でお馴染み、
キャプテンC(右)の方が子供ウケがイイんですよねぇ。
チーバくんより・・・

♪チュ~バチュ~バッバ、チュバチュバ~♪
(ロックン☆チュバという曲)
ってな軽妙なメロディと、
かつての名曲「なのはなロック」
(別名なのはな体操)よりも覚えやすい踊りで、
割と県内在住の子供は、ちゃんと踊れちゃったりするという。
イベントなんかやるとチバテレビという
マニアックな地方テレビ局の告知のみにも関わらず、
結構人が集まったりして行ってみてビックリします。

視聴率的には「※」(1%未満)のハズなのに、
意外とみんな観てやがるんだなと。

話を「ふなっしー」に戻して。
一応、ふなっしーについてネットで検索。

すると、港町産まれの梨の妖精・・・?
港町は完全な漁港(現在は釣り船用の港といったカンジ)。
はて梨の木なんてあったかな?と。

それにウチらの世代で「港町」というと
非常にガラの悪いイメージしかナイので、
港町というところを出自にすることで、
暗に後〇組だとか〇〇人部落がバックにいるぞ!という、
ある種の予防線を張ってやがるのかと、
ついつい身構えてしまうんですよね。
トラウマって恐いですな。

で、現在は船橋市馬込沢在住とのこと。
ココも梨園というより閑静な住宅街なんですけど。

船橋で梨というと反対側の高根・豊富エリアの方が、
有名ですからパロディっちゃパロディなんですかね?
でも馬込沢のスグ隣りが梨で有名な鎌ケ谷市なんで、
このへんのビミョーな皮肉で笑いを狙ってるんでしょう多分。

それにしても、わかりずれ~よ!


今は非公認キャラクターということで、
各種イベントへも、ほとんど自腹で参上しているとのこと、

はてさて、この先どのくらいブレイクするんでしょうかねぇ?
野田佳彦のあとは「ふなっしー」ですかい。

でも、ヨソの地域の人たちの方が「ふなっしー」について、
詳しいってオカシイですよねぇ。

長年、千葉4区の観察を続けている、
潮風太子とて、まったく存じ上げませんで・・・

ホントに「報道で知りました」次第。
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※今回は完全に独りよがりな内容になってしまったので、
 時間のムダですからパ~っと流し読みで結構ですんで・・・



今年のアメリカ・グラミー賞の技術賞で、
ローランドの創業者である梯郁太郎(かけはしいくたろう)氏が、
受賞したとのニュース。
あまりにもオタクなニュースなので、
さすがに大手メディアは小さい扱いだったものの、
このローランドという楽器メーカーと、
今回の受賞理由となったMIDIの普及が、
どれだけ劇的に世界の音楽シーンを変えたことか。

そして、これはプロに限らず「ボクら」のような、
かつての音楽少年(青年)たち(特にキーボード小僧)に、
どれほどの夢(野望)と希望(幻想)を持たせてくれたことかと・・・

ヲタ心を揺さぶるニュースに、
思わず一筆。
今回は1980年代のお話になります。

ローランドとMIDI黎明期の話となると、
このマシーンを語らないワケには、
いかないでしょう。
今じゃ我が家の押入れの肥やしですケドね・・・

デジタルシンセサイザーJUNO106!

当時は、まだデジタルシンセと呼ばれていたJUNO106。
61鍵盤(5オクターブ)、
6音ポリフォニック(6音同時和音)で、
しかも作った音を簡単にプリセットできて、
そのプリセット数が最大128音。
さらにコーラスエフェクターまでついているので
ライヴでも大活躍!

当時、価格も14万円程度ということで、
25万円近くしたYAMAHAのDX7が買えずに、
仕方なくモノフォニック(単音=和音が出せない)シンセや
廉価版のオルガン系キーボードを使っていた
キーボーダー(古っ)たちや
シンセ未所有のビギナー組にとっては、
それはもう衝撃と感激をもって、
JUNO106の登場に歓喜したものでした。

これなら、もうちょっとバイト頑張ればオイラでも買えそうだと・・・

待ってろよ~「教授」ってな調子で(笑)

また、このマシーンの登場以降、
国内各社のシンセも一気に高性能機での低価格競争へ突入。

それに伴いアマチュアバンドの演奏レベルも、
劇的な進化・発展を遂げることとなります。



この当時は、まだ自分で音を作ったり加工したりと、
センスを競えた時代だったので必死こいて音作りに没頭っ!
なんて今考えたら滑稽なコトにエラく労力をかけていたモンです。


そしてシンセ買ったら必ずやったのが、
YMOのコピー。

当時は音楽春秋社刊のフルスコア譜のほかに、
こういったシンセチューニングパネルつきの
譜面なんてモノも売られてましてね。

コレを見て応用しながらエフェクターで加工したりして、
YMOに近づこうと皆、必死にコピーしてたんですな。

あとJUNO106といえば、このMSQ-100も書かないワケにはまいりません。
キーボードをサラダとするならドレッシングみたいなもんですかね?
シーケンサー(自動演奏装置)というヤツでして。
コレに音符を数値入力して、
シンセの音源と同期させると、
一人で2パートの演奏が可能になると
\(^o^)/

しかし今、改めてこうして見てみると、
なんとアナログなモンだったのかと思いますよねぇ(笑)

一音一音、丁寧に入力して出来上がったら、
データはカセットテープにセーブしてから
ベリファイすると・・・
ピ~ガ~ッってヤツね。

なんて書いても、わかるかなぁ?
もう完全にオタクなネタになってしまいました。
スミマセンm(_ _)m

スピード調整なんかも、
こんな感じにダイヤル回して、
速いテンポにしたり遅いテンポにしたりと、
なんともアバウトなモノだったんですが、
これが画期的だったんです。



そしてキーボードとシーケンサーを繋ぐ、
このMIDI端子!!

今じゃ珍しくもなんともないモノですが、
これによって「シロウト」でも完璧なシンクロ演奏が
可能になったんですな。

何度も失敗しては、また録り直しってな
アナログ式オーバーダビングから
開放されるようになると、
アマチュアミュージシャンたちが作る
デモテープのクォリティも一気にアップしました。


そして忘れちゃいけないリズムマシーンTR-707。

これも入力にエラく手間がかかりましたけど、
付属のカセットアダプターにプログラムを記憶
できたことが当時は斬新でした。

これらの機器をMIDIでつないで、
テクノポリスやライディーンを演奏。

譜面通りに完コピできたときなんか、
やっとYMOの尻尾を捉えたぜっ!!
ってな感じで嬉しゅうござんしてね。
エラく感動したものでした(涙)


それからしばらくしてJUNO106S
(JUNO106に内蔵アンプがついたタイプ)
が登場するんですが(↑当時の広告)、

このJUNO106Sが登場したあたりから、
大手楽器店がリードする形で、
本家のJUNO106の値引き合戦が始まり、
やがて、この手の中古市場も
確立されるようになっていったワケで。

その結果、高校生や大学生でも、
キーボード2台以上所有なんてことが、
ごく当たり前になっていきます。

バンドでもプロ・アマ問わず、
イントロやソロにシンセを
多用するようになったのは、
ちょうどこの頃の話。

それと特にローランドは
YAMAHAやKORGに比べ(CASIOは論外とする)
値引き幅が大きかったので、
ローランドのキーボードって、
普及していくスピードが早かった気もしましたね。

こうしたローランドの大躍進をみてか、
YAMAHAのDXシリーズもコレを追随する格好となり、

また各社のシーケンサーやリズムマシンも、
廉価版の高性能機が続々と登場、
プロ・アマともに音楽シーンを席捲していくようになり、
最終的にMIDI仕様は電子楽器の常識となっていきましたとさ。

とまぁ、こんな感じですか・・・

「物置の肥やしJUNO106」と
「MIDI」ってキーワードだけで、
こんな長文になってしまいましたトホホ。

そして、この時代の広告や曲、
当時流行のミュジシャンのインタビュー記事など
MIDI黎明期の歴史的資料が、
たくさん詰まっている当時の雑誌
(これはキーボードランド)もまた、
捨てられない品なんですよねぇ・・・

お宝か?それとも単なるゴミか?
見る人によって全く見識が異なる
MIDI黎明期の品々ってヤツは、
なかなか厄介なモノでして・・・

思い出深いコトもあり、
捨てるに捨てられず、
未だに処分の判断に迷っておりますハイ。

同じような人、結構いるんだろうなぁ。
ウチらの世代は特に・・・。


今回はMIDI黎明期のヲタ風回顧録でした。
      
おそまつ。
例の大阪市立桜宮高校の「大失態」に端を発した、
「体罰問題」が今度は全日本女子柔道の話にまで発展してきた。

昨年の9月に女子柔道の選手15人が、
JOCへ監督による体罰があっただとか、
全柔連の体質を問題視する内容の告発文を送ったという。

一旦は上手く揉み消したものの、
桜宮の「不祥事」が呼び水となり、
ぶり返されて更に問題が大きくなる結果に。

結局、園田監督は散々日本国中の民衆から非難された挙句、
「辞任」することとなった。
強姦で永久追放になった内柴よりは、はるかにまともだが、
時代が悪すぎた。
というか時代遅れの指揮官だったのかもしれない。

桜宮高校バスケットボール部の問題とは、
まったく質が異なる問題なのだけれども、
どういうわけか同じように「体罰」という枠の扱いでメディアは報じる。

更に、よ~く観察していると、おかしなことをどこも書く、言う。

「日本のお家芸である女子柔道」だと。

残念。競技(格闘技)としての女子柔道は外国に比べると、
はるかに後進国だということを皆、「ヤワラちゃん」こと、
谷亮子(田村亮子)が登場してきた頃くらいから、
多くの日本人たちは忘れてしまった。

あたかも昔から日本は強豪国だったと勘違いしている人も多い。
とくに若い世代はそうだと思う。

いつになったら、この話を取り上げるメディアがでてくるのかと、
思っていたものの、どうも取り上げるトコもないようなので、
仕方ナイ自分で書くかということで一筆。




昨年の小学館ノンフィクション大賞受賞作品
「柔の恩人」  小倉孝保 著

レナ・ラスティ・カノコギという女性柔道家が、
女子柔道をオリンピック競技にするために尽力したことを、
知っている日本人は、ほとんどいないハズ。

ほとんどの日本人は、日本が世界に働きかけて、
正式競技にしたと思っている。

この本にも書かれているが、
第一回世界女子柔道選手権はニューヨークの
マジソンスクェアガーデンで開催された。
日本の武道館でも代々木第一体育館でもナイ。

ちなみに、このとき日本は6名の選手を派遣したが、
メダルを獲得したのは52キロ以下級の山口香の銀メダル一つ
だけという結果に終わっている。

というのも全日本女子体重別選手権が初めて開催されたのが、
1978年。これが日本で行われた最初の公式大会。

このときすでにヨーロッパを中心に競技としての女子柔道が、
すでにジャケットレスリング的に進化・発展していたのだから、
付け焼刃的に日本が参戦したところで太刀打ちしようがなかった。

そして、この第一回世界女子柔道選手権こそが、
のちにオリンピック競技となる礎となる。

この第一回世界女子柔道選手権の組織委員会を立ち上げ、
運営を仕切った人物こそがラスティ・カノコギなのだ。

ラスティは1935年ニューヨークのコニーアイランド生まれ、
競馬狂いで飲んだくれの父と変わり者の母、
8歳上の兄との貧しいユダヤ人一家という出自。

少女時代は典型的な不良少女だったが、
18歳で結婚し子供を出産、
しかし旦那はアル中で暴力亭主。

そんな状況下で「柔道」と出会い、
やがて「総本山」で学びたいと思い1962年、
子供を残し単身、東京の「講道館」にて
約3ヶ月間本場の柔道を学び最終的に2段に合格。

そこではまた、
のちに生涯の伴侶となる再婚相手の鹿子木量平という男と
知り合うこととなる。

しかし、このレスティの柔道の歴史は常に、
男性社会「柔道」との戦いでもあった。

「女が柔道なんて危険」だの、
「女子柔道は選手が揃わない」とか
「ちっとも国際的には知名度がないスポーツ」やら、
「女子柔道でレズビアンが増える」などといった、
今だったら人権問題に発展しかねないような誹謗や中傷とも戦い続け、

ときに奇策、ときに「ハッタリ」、
さらには「恫喝まがい」な脅しや巧みなロビー活動を駆使し、
とうとう女子柔道を1992年バルセロナ・オリンピックから
正式種目にしてみせた。

レスティが柔道を始めてから、すでに30数年が経過していた。

実のところ女子柔道というのは競技となって、
まだ20年ソコソコの競技なのだ。

しかしレスティがいなかったら、あと20年は正式種目になることが、
遅れていたであろうとは、レスティの盟友「山下泰裕」のコトバ。

2010年に東京で行われた世界柔道選手権で女子が、
8階級中6階級で金メダルを獲得したことで、
一気に「お家芸」だのと言い出すようになった。

しかし残念ながらロンドンオリンピックでは、
金、銀、銅メダルを各1つづつ獲得したものの散々な結果に終わった。

要するに研究されたワケだ。

2010年の「成功」は30年以上前の指導法が、
幸か不幸か「功を奏した」結果となった。
が、それが「悲劇」の始まりでもあった。

元々の日本における女子柔道というのは、
「美しさを追求」した型中心の柔道で格闘技ではなかった。
ましてやこれを競技とすることは考えもしなかったハズ。

それこそ嘉納治五郎もビックリの話だったのだ。


柔道というものは元々、柔術のイイトコ取りで、
危険な要素を除き作られたもので、
精神・肉体の鍛錬を目的に出来たモノ。
金メダル至上主義ってなモノではなかったハズ。

しかし金メダル=金づる

という拝金主義という麻薬に溺れてしまうと、
そもそも女子柔道の競技化に難色を示していた、
全柔連だとかJOC(IOCも当初そうだった)が
手のひら返したように「やれ金メダルの数がどうの」と、
言い出すようになった。

こういう連中の横柄な態度こそが、
訴えたとされる彼女たちの怒りの本意
だったのではなかろうかと・・・
世界の女子柔道から日本は少なくとも、
今だに10年は遅れていることを、
改めて実感したからなのだろう。

これ以上コイツらには任せられないと。

これもまた「脱・男至上主義」という戦いなのだろうか?

とすれば、彼女たちもまたラスティ・カノコギの、
「女子柔道の精神」をしっかりと受け継いだ、
後継者かもしれない。

最後にラスティ・カノコギはことあるごとに、
座右の銘的に心に思った言葉を書き加えておこう。

「釘になるなハンマーになれ」    

だそうだ。

「闘え!」という意味だ。

ということは園田元監督や全柔連は釘になってしまったか・・・

※2009年11月20日ラスティ・カノコギは永遠の眠りについた。
また2008年弁護士の柳田幸男や山下泰裕の尽力で日本政府から
ラスティへ旭日小綬章が贈られたが、
当初から授賞に難色を示していた文科省(全柔連を統括)ではなく、
女子柔道の国際化に貢献した人物という理由にすることで、
外務省ルートから贈られた
というところも興味深い。
またラスティ・カノコギは女性初の、国際A級審判でもある。